ご先祖様から喜ばれる正しい先祖供養とは一体、どのように執り行えば良いのでしょうか?
1.先祖供養商法にご注意
よく世間では「先祖が成仏していない」「先祖の霊が迷って、子孫を祟る」「病気や災害は先祖供養を怠っているからだ」とかエセ霊能力者がイイ加減なことを、私利私欲の為に、無責任に吹聴して回っています。またマスコミも、それを何の検証もせず、無責任に流行させてています。善良な市民はエセ霊能力者の情報に不安をあおられ、踊らされ、駆り立てられて、分けのわからぬまま、エセ霊能力者の「先祖供養商法」の餌食になています。
2.死んで成仏するの?
そもそも「成仏」とは仏法の概念です。まず仏教徒以外には無関係です。神道の方、キリスト教徒の方は成仏云々で不安になる必要がありません。仏教徒の方はご存知のように「成仏」は「仏様に成る」つまり「ブッダ目覚めた人に成る」ということで死とは無関係です。お釈迦様は死んで仏に成ったのではなく、因果の理法を覚られて目覚めた人・ブッダになれたのです。死んで仏に成るのだったら菩提樹の木の下でお釈迦様は想しながら死んだことになります。今の仏教というのは死人の説いた教えになります。どう考えてもおかしいですよね。
3.先祖が祟る?
また「先祖が祟る」とはどういうことですか?それは有り得ません。親として自分の子や孫をいじめるわけが無いじゃないですか?虐待ですか?また「病気や災難」の理由が「先祖供養の怠慢」とは一体どういう因果関係なんでしょうか?まぁ、風吹けば桶屋が儲かるぐらいの長いスパンで、回りまわっての何らかの作用というのが、無きにしも有らず、でしょうが、実際のところ、どうなんでしょうか?誰も正確に検証することができません。それをいいことに日本人の善良な風習に便乗しているのが、許せないところでありませんか。
4.先祖とは誰?
私たち自分自身が現に今、此処に存在するのは、ご先祖様がいらっしゃったお陰です。そのご先祖様に何とか感謝の気持ちを表したいというお気持ちは 大切にしたい美しい日本人の心です。さて、では、ご先祖様とはどなたでしょう?曾おじいさんとか曾々おばあさんとか浮かびますが、でも・・・・一番身近な先祖はズバリ、お父さんとお母さんですよね。
5.先祖供養のいろはの「い」とは実は○○○
昔から父の恩は山よりも高く母の恩は海よりも深かしと言います。故に「いの一番、感謝しなくてはならないのはお父さんとお母さん」ですね。ですから、先祖供養のいろはの「い」とは実は親孝行です。「親孝行したいときには親は無し」と昔から言いますが、あれは本当ですよね。ご両親がご存命で、お元気なうちに、どうか勇気を出して、照れくさいのを辛抱して、素直に感謝の心を、あなたのその御声で、「ありがとう」と、言葉にしましょう。「ありがとうございます」の言葉の真意は「有得ないような奇跡の存在が、現に今此処に居らっしゃる」という実に深い深い真言(マントラ)言霊です。たとえ棒読みのような形だけでも効果絶大なのです。
6.生きている親への最高の孝養とは(鏡の法則)
近年「鏡の法則」という本がベストセラーになりました。本の宣伝コピーは「読んだ人の9割が涙した! インターネットで爆発的にひろがっている、愛と感動の真実のストーリー。」ということで、そのあらすじは・・・・主婦・栄子は、息子がいじめにあっているのに悩んでいた。ひょんなキッカケから紹介を受けたコンサルタント矢口氏に相談したところ、『あなたが大事なお子さんを、人から責められて悩んでいるということは、あなたが、誰か感謝すべき人に感謝せずに、その人を責めて生きているからなんです』と告げられたそして、その解決策として伝授した方法とは『お父さんに感謝できること』と『お父さんにあやまりたいこと』の2つの紙に書き留めたことを、棒読みのような形だけでいいから、電話で読んで伝えるだけでOKです。と、言われたとおり実践した栄子さんのお父さんに何が起こったか?・・・・・・受話器の向うで号泣して泣き崩れています。あの厳しかったガンコ親父が・・・そしてこの瞬間から栄子さん自身と、栄子さんを取り巻く家族の運命がガラッと変わります。親子関係、夫婦関係がみるみる改善されます。夫婦、親子、兄弟、親戚、友人とどんどん良質な人間関係が拡充していきます。実はこの話には私自身も体験があります。
7.実体験から
私、法喜も幼い頃、両親が離婚しまして、母子家庭として女手一つで育ててくれました。父と生き別れて実に35年の歳月がたっていたある日、「神奈川県の相模原市という所に住んでいて、今、病院に入院している」と役所の方が、ご親切に調べに調べてご連絡くださいました。35年も経ていますので、今更、母と私たち兄弟を捨てた父に会う気にもなれませんでした。
しかし妻はこれは何かの縁であなたが親孝行できる最後のチャンスになるから、今すぐ会いに行こうと勧めてくれました。妻の誠意ある志に感動していくことになり、会えました。35年ぶりの再会です。私は仏教徒ですから、恨み、つらみより「まずは、親への報恩感謝を先としよう」と思い次のように言いました。「お父さん。私はあなたの下に生れて、今、こんなに幸福に暮らしております。これはすべて、あなたが居たお陰です。本当に心から感謝しております。ありがとうございます。」と、
棒読みだったかも知れませんが、ゆっくりと、かみ締めるように申し上げました。すると、やはり鏡の法則通り、彼は号泣とまではいかなくとも、ポロポル大粒の涙を流しておりました。そして、安心したのかその一週間後に静かに他界しました。ギリギリ間に合いました。あの時、妻に背中を押されなかったら、私は親不孝者で終わりました。それでは仏教徒失格です。妻の救いには一生感謝しております。
8.亡くなった親への最高の孝養とは(追善回向)
では、残念ながら、もう既に亡くなられたご両親、ご先祖にはどんな親孝行が最高なのでしょうか?誰でもそうですが、してもらいたいことを、してくれるのが一番うれしいはずですよね。サプライズ・・・・的な。では、ご先祖様が我ら子孫にして欲しいこと、望むことって一体何でしょうか?・・・・・
では、そのヒントになる質問をひとつ。一度観点を換えて、逆にもしあなたが「親」なら「子」に何をして欲しいですか?・・・・・
当然、「本当の幸せになって欲しい」ですよね。ご先祖様も同じです。「子々孫々、本当に毎日、楽しく、幸せであってくれよー」と願っておられます。ですから、私たち子孫が現実に幸福になって、次の言葉をかけてあげる。そのこと自体が、最大のご供養になります。
「お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、
そしてご先祖様。私はあなた方の下に生れて、
今、こんなに幸福に暮らしております。
すべてはあなた方が居られたお陰です。
本当に心から感謝しております。
ありがとうございます。」
これが正しい先祖供養です。どうですか?全然、オカルト的ではないでしょう? だれでも昨日は子孫と呼ばれてましたが、必ず明日は先祖と呼ばれます。子どもから言われて、本当に嬉しい言葉をかけてもらう事が最大のご供養です。反対に、子供が辛そうに毎日涙を流していたら、親としてとても心痛ですよね。できたらかわってあげたい・・・というような悲しい気持ちになります。しかもどうすることもできません。励ましの声もかけてあげられない。寄り添って肩を抱いてあげることもできません。ただ心配そうにたたずむだけです。
ですから私たちは「絶対、この世で崩れることの無い、無条件の真の幸福」になって、ご先祖様に元気で、明るくご報告できるようでなくてはなりません。ご先祖様に、心配かけまいとして無理に、カラ元気をだしてツクリ笑顔を繕っても、子孫の心の中の隅々の、細かい悲しみまでも、全てお見通しです。それはなぜか。死者は身体は不自由ですが、心は自在です。たとえば「千の風になって」の歌にもあるように自在に遍満していけるのです。
9.絶対、この世で崩れることの無い、無条件の真の幸福とは
では「絶対、この世で崩れることの無い、無条件の真の幸福」とはなんでしょう?幸福とは例外なく、万人が求める究極の人生の目標であります。誰もが、僅かな儚い幸せを西へ東へ求めては、必死でしがみ付き、果ては目の当たりに崩れ去るのを慌てふためき、悲しみに悶絶します。「禍福は糾える縄の如し」と言うが如く人の幸・不幸は縒って作った縄の目のように、交互に訪れ、決して幸不幸いづれかのみが連続して表れることは決してありません。そんな時には「縄は糾って、互いが補強仕合う事に依って強い力を保持する事が出来るのです・・・・・・・」と、心に言い聞かせ傷ついた自分を癒します。
でも一体、この世に「どんな時代、どんな環境下にあっても永久に崩れる事なき、絶対的な幸福境涯」って本当にあるものなのでしょうか?人類始まって以来、誰がこの大いなる問いの解答を実際に手にすることができたでしょうか?釈尊?キリスト?竜樹菩薩?パドマサンヴァババ?サティアサイババ?日蓮大聖人?池田先生?そうかも知れませんね・・・・・・で、あなたは?聖者への論評はあまり意味がありません。譬えば、お隣の預金通帳を一所懸命、穴が開くほど観て調べても終にあなたには一銭も入りません。 しかし、「永久に崩れる事なき、絶対的幸福」は確実に厳然として実在します。
10.「絶対的な幸福」とは、「自分が今、此処に在る」という絶対的な確信
あなたの「自分が今、此処に在る」という絶対的な確信は、この宇宙と自分自身の生命が同一の根源のものであるとの確証に変わります。それにより、外部環境の出来事に心身が一喜一憂、右往左往されず、あらゆる苦難を「生命の次元上昇の為の学び」に自由に転化し、克服していくことのできる境涯になります。
そうなったら、あなたは生きる事自体、存在すること自体が心の底から、楽しくワクワクする状態になります。鳥や虫は歓喜の詩を歌い、花はパッと咲き乱れ、魚はピチピチ飛び跳ね、雨は土塊を砕かず、自分の周りを空も海も陸もグルグル廻り、神々は上着を脱いで振り回し、歓声をあげてあなたに抱きつきます。
11.「絶対的な幸福」とは「無条件の幸福」
また「絶対的な幸福」とは換言するなら「無条件の幸福」です。経済的な豊かさや社会的地位、やりがいある仕事や仲間、健康や愛情、そしてグルや信仰心というものは永遠普遍のものではなく、究極で絶対的な幸福とはいえません。幸せになるために何かが必要であるような幸せは本当の幸せではありません。条件に基づく幸福は右往左往する無常の幻想です。
すなわち、私が幸せになる為に、お金が要る、仕事が要る。家が要る。精神的満足が要る。恋人が要る。愛が要る。悟りが要る。信仰が要る。言葉要る。世界が要る。肉体が要る。心が要る。・・・・・・・・・例えば創価学会員さんには池田先生や戸田先生のようなカリスマ指導者が要るのです。又一方、池田先生や戸田先生も自論を論証する文献や権威が要るのです。それは共に・・・「自分が居ない」から「何かが要る」のです。
最初はそれでもいいんです。どんどん求めてください。どんどんお金、地位、名誉、やりがい、仲間、愛、信仰、真理、心の平安
しかし結果は・・・・・・・・一周回って元に位置に還ります。いろんな映画を観て泣き笑い感動してワクワクしながら家に帰ります。
12.実は幸福とは真のあなたの事
法華経の法華七喩は実は全て此の事を諭しているのです。火宅は自分以外への追求です。長者は高次のあなたです。三草二木はあなたの側面です。化城とはグルと教えです。衣裏珠も髻珠もあなたの「魂=真我」です。幸福はあなたの中にあります。高次のあなたは良医です。生死はあなたが世界へ放つ慈悲の方便です。すなわちあなたは永遠の存在です。
暑い真夏の炎天下、あなたは涼しい木陰を離れて、歩き回り元の木陰に返って来ます。決して無駄ではありません。木陰の有り難さをもっと強烈に体感したかったあなたの作戦のひとつですから。そして最後に必ずあなたは言います。あの散る散る満ちるの有名なセリフを・・・「なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ。僕達はずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたんだ。」と。このことを最初から解ってる斎藤一人氏は呟きます「方位方角おかまいなし。私のいるところが、しあわせなんです」
13.すべての事象はそこへ還る為の巧みな方便
幻、夢、冗談、洒落、ゲーム、巧みな手段何と呼んでもかまいません。ココだけは押えて置いてください。すべては方便だという事をそうしたら、そうしたら自然に辿り着きます。「私は 今、此処に在る」の確信に。きっとうまくいきます。ですから、
もっと感じたことを思うが侭に、自分の言葉で語りましょう。自分の意思で行動しましょう。せっかくのあなただけのあなたの人生なのに一体、誰に遠慮しているのですか?