これは道(タオ)陰陽二元論の象徴、太極図の深意であります。なるほど見渡せば、明暗、昼夜、男女、生死、善悪、正邪、天地、光影、プラスマイナス、主従、与奪、内外、etcこの世の森羅万象は対局する二つのカテゴリーで構成されています。決して片方単独では成立し得ませんよね。
この事は、人生に於いて、どんなに悲惨な境遇に堕ちようとも、必ず開かれる光の道が必ずどこか一筋有り、また 順風満帆の輝かしい人生にあっても、奈落に通じる落とし穴が必ずどこか一点ある事を、先哲が我々に教えてくれているんではないでしょうか?
では大地を叩いて涙し落胆する時、一筋の光の道とは何でしょうか?それは「学び」じゃないかなと思うんです。例えばこんなセリフが出てきたら彼は「学び」を得たと言ってもいいんじゃないでしょうか。
「嗚呼、此度、大変な悲惨な目に遭ったが、この出来事は一体私に、何を教えてくれているのだろうか?若し今、このタイミングでこの事が起こらなかったら、今よりもっと深くダメージを受けていたかも知れない。今、悲しみに打ちひしがれ流す涙に因って、私の心はすっかり浄化された。転んでもタダで起きるものか!そうさ、この出来事を宝に変えよう」とか
じゃぁ逆に順風満帆の時の「奈落に通じる落とし穴」とは何でしょう?それはきっと「自惚れ」じゃないかなと私は思います。例えば「俺マジ最高。業界の愚か者どもの誰よりも俺は遙に優れている。だからこそ実際にこのような結果が出たんだぜ!」とかのセリフは要注意ですね。おー危うし危うし。
そもそもあらゆる出来事に遭遇する御縁というものの詳細なんて、人知では到底知り得ませんよね。それは別段、誰かの何らかの意図もなく、起こるべくして、只今起こったという事なんです。そんな本来ニュートラル「0」な存在である「出来事」(空観)に、足を地に付け一喜一憂、右往左往しない姿勢(中観)に先ず立って、その上で、「出来事」を利用して「学び」や「教訓」等を自由に生成(仮観)できる能力を私達は皆、本来持ち合わせているわけですなんですね。有難う御座居ます有難う御座居ます。
有難う御座居ます。
自分の人生劇場を鑑賞する自分