2013年3月31日日曜日

悟り(覚り)って何?


与那観、さとり「SATORI」とは一体何ですか?
またそれによって生活がどのように変化しますか?




結論から言うと時空を超えます。


なぜなら達成後の自分自身と表裏一体に同居するからです。
達成感をリアルにするための時間であり空間でありますから
達成後との同居には凝った演出は不要となります。

そのことにより世界宇宙法界の森羅万象万物と

切っても切れない、強く深い信頼の絆が構築されます。


そのことにより、降り注がれる全ての出来事は

何ひとつ自分の本意と矛盾なく旨くいきます。

爽快に軽やかになります。

ワクワク楽しくなります。

煌めくほど美しく映ります。


・・・・・・・



仏様は本当に素晴らしい船頭さんですね

その船は何万何億人をも乗船できる

超大型豪華客船なのですね。

正に大乗と言うが如しですよね。

さて、では一体何処へ連れて行って下さるのでしょうか?

そうですね彼岸ですね。じゃ彼岸て何処ですか?

西方極楽浄土ですか?

カイラス山ですか?

聖地エルサレムですか?

いえいえ実は「本当のあなたの家」に帰るのです。







あの時、あなたは街をちょっとブラブラ歩こうと玄関を出て

美しい華を見て心奪われ、美しい鳥の声に心奪われ

いい匂いへとどんどん世界中を冒険しました

冒険に飽きた或る時、振り返ったら

帰り道をすっかり忘れてしまっていました

やさしい家族、あたたかい布団を思い出すと

心細くなり目の前が真っ暗になります

するとどこからともなく仏様は現れます

「さぁいっしょに帰ろう!」と大舟に乗せてくれます

実は仏様とは無明の酒に酔ったあなたを迎えにきた

代行運転手さんだったのです(笑







舟は最短距離の航路で全速力で家に向かいます

すると船内にはいっぱい人がいて賑わっています

みんな同じ境遇なのですぐ打ち解けあい友達になります

楽しい仲間たちの語らいはワイワイ朝夕延々続きます

仲間、語らいとくれば・・・そう、また酒です

あなたの住む町の港に舟が着いても

酔いつぶれたあなたは知らん顔して一向に下船しません

「私の家は此処ではありません」と言い張ります

仏様はこの大船はあなたの家の玄関先までは行けませんよ

あなたの住む町の港で降りて、桟橋から道へ真っ直ぐ歩いて

気を付けて家に帰りなさいね

でもあなたは「私の家は此処ではありません」と繰り返すだけ

仏様が酔った衆生を救済するその救済手段に

今度はまた酔っちゃうわけなんです

もう完全にアルコール中毒ですね(笑






それでも仏様はキレもせずにっこり笑って

「じゃぁ 一旦船に戻りましょう。

先に他の人の町に届ける間にゆっくり、

甲板で爽やかな潮風を受けて酔いを醒ませばいいから。

さぁもう一度、ワクワクする旅を続けましょう」

やはり流石、仏様は太っ腹で慈悲の塊です。

あなたの自発的な意思が起こるのをじっと待って下さるのです。

あなたは終に仏様の深い慈悲を識り、すっかり酔いが醒め、

次の航海で笑顔で友と別れを告げ舟を後にします






実に宗教とはこのようなもので

乗下船するべきベストタイミングというものがあります

いつまでも宗教団体に所属し続ける事は

実はその団体の祖師の意には沿わない事なのです

きつい言い方をすれば、いつまでも病室に留まる難病患者

延々留年を続ける不良学生、

終身刑の囚人と余り大差がありません






でも乗下船するべきベストタイミングを逃したとしても

次の良い波も必ずありますからご安心を

常にあなたのベストなタイミングで物事が起こるようになっています

何故なら全ての仕掛け人はあなただからです






ところが舟に残った酔った友の中に必ずこう言う者がいます

「下船する者は自惚れ者だ。

だってそう簡単にこの度のキツイ酒は醒めない(笑)

醒めてないのに醒めたというのは自惚れ者だ」と

でも下船者には実はそれが

舟を降りるベストタイミングであったという重大な証拠

があるのです。これは残る友には絶対知り得ない事実です。

それは・・・・・


下船のシーンの続きです。

感極まって舟を降りた瞬間、振り向くと

あの船も、仏様も、友達も、海も、桟橋も何も無かったです。

目に入るものは自宅の部屋の壁天井だけです

実は初めから一歩も家を出ていなかったのです

この時点であの冒険全体が夢だと識ります

この時この世の全ての仕掛け人が自分自身であると自覚します

仏様とは自覚された後の高次の自分が時空を超えて

自覚前の自分にヒントを与えに来た今の自分自身と

同一人物に間違えないと強烈に自覚します。

そこには自他、因果の隔たりが完全に滅失し混然一体となります

時空自体が冒険の為の凝った演出だったからだと識るからです

覚りとはこのようなものだと私は思います



続き(まとめ)

SATORI(覚・悟)とは
「私」が覚った後のハイヤーセルフ(高次の自己の存在・本果)と同居
するという事。
(イツモ ソバニ イル ノ ジカク)を識ることからはじまります。

そして、そのことは同時に「私」のハイヤーセルフにとっては
覚前の素の自己(本因無作・心の本性)と同居することに相当するんだ。
という大逆転の大いなる真実にハタっと気付くのです。
なぜならハイヤーセルフも私自身ですから

つまり、覚った「心」が、完全な存在である「体」を作ったわけです。
例えばこの世は地水火風空の聖なる5大で構成されています。
私達の身体も又そうです。今は始まった事じゃありません。
そもそも初めも終わりもありません。無始無終、因果同時

骨肉は大地、血液やその他体液は水、体温は火、呼吸は風
そして心は空です。心は掴みようもありませんが今此処、確かに在ります。
体の見えない部分を心と言い、心の見える部分を体と称しているだけです。

召集を掛ける者(生または心)と掛けられる者(死または体)。
客体(世界)とは主体(私)にとっての客体(世界)なのです。

「覚りたい者」は「覚らせたい者」と「覚り」を引き寄せるのです。
他の2者にとっても同じ構図がそこに働きます。
仏法の三身三諦三観、基教の三位一体の3とはこの3なのです

道の云う1、2、3とはその1元、2元、3元と階梯の次第を指すわけです。
そして3は又即1、唯一大事(ワンネス)へと帰結する。
人生全ては「1」が「1」と識る為の壮絶な冒険だったわけです

つまり、SATORI(覚・悟)とは
「私達の存在自体=魂」の名称なのです!

信仰として奉られた仏様はゴールのテープ
スタート地点に居るノーマルのランナーこそが
事実上の仏様なのです

最澄曰く、「有為の報仏は、夢裏の権果。
無作の三身は覚前の実仏。」云々




0 件のコメント:

コメントを投稿